この建物の本来の用途は給水塔である。第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、陸軍造兵省が周辺の軍の施設に給水するために建設した物である。また当時この辺りには松の木が多く、戦争の末期には戦闘機の燃料不足を補う松根油を採る装置が、最上階の給水タンクを除く1階から4階を使ってセットされていたという。終戦を滋賀でむかえ、生家のあるこの地(埼玉県深谷市)に戻った栗原さんは給水塔の高さに魅力を感じ、毎日これを眺めて過ごしたそうである。この給水塔に住んでみたいという思いが高まっていく中、昭和30年(1955年)幸運にも国から払い下げになることが決まった。競売となり、入札者は2人だった。給水塔を解体し中の鉄筋を手に入れたい屑鉄商と、そのころには病院の事務長の職に就いていた栗原さんだった。給水塔を手に入れると早速住宅化する作業に取りかかった。栗原さんが設計をして工事は大工さんや鉄工所に依頼したそうである。2階に寝室・食堂・台所・浴室・便所を作り、結婚して間もない栗原夫妻の「給水塔」での生活が始まった。とはいえ、まだ3階・4階には窓もなく野鳥が棲みついたり、風に飛ばされ入ってきた枯葉が床にまき散らされたりの状態だったそうである。翌年、長男が誕生すると2階に奥さんと子供のための部屋を増築し、2年後には長女の誕生を機会に3階を子供部屋にして、昭和40年(1965年)には現在の姿として完成に至っている。