初めてこの家を訪ねたのは1989年の秋のことだった。それまでの経験では、建築家の設計によらない風変わりな建物の多くはセルフビルドであった。そうでない場合も、自らのイメージを何らかの形で施工者に伝え、彼の異形の世界を実体化するといったものであった。特に住宅では、生きることと創ることが一体化した、特異な人物の手によるものがほとんどであった。
しかし「給水塔の家」は、それらと全く異なり「給水塔」として形が与えられた建物の中に、自分の「生」と共振する世界を発見し「住居」への転用をはかるという、僕にとっては初めて出会うタイプの家であった。この家は広い敷地に、独特な雰囲気を作り出すほどの多くの植物に囲まれて建っていた。外観は過剰な力学が発散する鉄筋コンクリート・ラーメン構造の打ち放しである。スチール製の物干しと、太い柱とハンチのついた思いっきりの梁に囲まれた窓の柄物のカーテンだけが住宅らしい表情を見せている。外から人の気配を感じることはできなかったが、住宅であることを知っていたので声をかけてみると、ご主人の栗原さんが玄関のドアを開き顔を出してくれた。
運が良かった。後で分かったことだが、この時すでに栗原さん一家はオーストラリアに移住していて、たまたま日本の秋を楽しみに帰国していたのだった。栗原さんは、垂直方向への移動が多いこの建物を、軽い足取りで上ったり降りたりしながら案内したくれた。「お元気ですね」と声をかけると、「長い間ここにすんでいたからね。私たちには不都合ないんだけれど、同世代の友人達はこの階段が苦手でね」という返事が返ってきた。確かに、毎日がトレーニング、生活即健康法といった建物ではあったが・・・。 この時、1920年生まれの栗原さんは80才だった。
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