もとより居住のために作られたのではない「給水塔」に、住宅としての利便性や安全性、
そしていわゆる生活の快適性を求めていなかったのは明らかである。むしろそのあたりは、「給水塔」のコンクリートのフレームの中に住宅をすべり込ませる作業課程で、可能な範囲で解決していったのだと見る方が正しい。
何よりも「給水塔」への居住を駆り立てたのは、それが5階建て高さ18メートルの垂直な空間であり、過剰な力学の発散する裸の構造体だったことなのだ。
僕との会話の中でも、彼は何度となくこの建物の高さについて言及している。
以前は周辺からは勿論、1.5H程離れて走るJR高崎線の車窓からでも目に入ったこと。上の階に上れば地上と異なる風が吹いていること。屋上からは秩父の山並みや赤城、日光の山々が望めることなど。そして「とにかく高さが気持ちよかったからね」・・・と。
戦後の開放感と「給水塔」の高さが、彼の気持ちの中でどこか重なるところがあったのかもしれない。「戦争が終わって、1つ屋根がとれた感じですよね。何か新しいことができるんだという」そんな言葉からも時代と共振する栗原さんの感覚が伝わってきた。