高橋峯吉は明治37年(1904年)6月に起工式を行い、同年9月25日から仕事を始めた、46才の秋であった。
間口30間、3階建ての洋風建築「巌窟ホテル高荘館」、完成に3代150年を要すると自ら語った建築は、この時から彼が死を迎える大正14年(1925年)までの21年間、堀り続けられた。そしてその後は、幼くして高橋家に養子として迎えられた2代目泰治さんが成長の後、これを引き継ぎ昭和40年まで掘り進め、以後は保守・管理に多大な時間を費やし、今日に至るのだという。
市野川の橋を渡るとすぐ右手の切り立った岩肌に「巌窟ホテル高荘館」のファサードを見ることができる。岩肌に白い石膏を塗りつけ、その上に黒とグレーで装飾や柱などが描かれている。峯吉のオリジナルスケッチによると、間口20間(約36.4m)の3階建てで、偶然なのか意図的なのか、幅と高さのバランスが黄金比に近い。しかし実際はファサード
間口が13間(約23.7m)の2階建てであり、3階部分の窓はわずかに刻まれた痕跡を止めているにすぎない。
デザインは確かに西洋建築風だが(峯吉はロマネスクスタイルをモチーフにしたと言っていた)、開口部廻りのデザインや建具などの詳細な部分はオリエンタルな印象の強いデザインになっている。